秘密戦組織が置かれていたルーテル神学校校舎

-憲兵学校実験隊・特設憲兵隊-

 山田朗氏の著書『帝銀事件と日本の秘密戦』(新日本出版社,2020)を読んだところ、秘密戦組織が「鷺宮のキリスト教会」に置かれていたという非常に興味を惹かれる記述があった。そのため、少し調べてみた。

1.帝銀事件

 帝銀事件とは、1948(昭和23)年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に現れた男が、伝染病予防のためと称して青酸化合物を飲ませて12名を毒殺、現金などを奪った事件である。犯人とされた平沢貞通は犯行を否認したが、1955(昭和30)年に死刑が確定。刑の執行がなされないまま1987(昭和62)年に獄死したが、裁判と再審請求の中で冤罪の可能性が主張されてきた。現在も第20次再審請求中である。

 捜査当局は、当初、毒殺の経緯から、毒物の取り扱いに慣れ人を計画的に殺害した経験を持つ旧日本軍関係者を捜査していた。例えば731部隊、1466部隊、陸軍中野学校、軍医学校などである。その結果、帝銀事件捜査班は、戦時における日本陸軍の秘密戦機関・部隊のほぼ全容を、1948(昭和23)年に捉えていた。731部隊などが一般に知られるようになったのは1980年代以降なので、驚くべきことである。

2.甲斐捜査手記

 帝銀事件には捜査資料が残されており、資料を残した警視庁捜査一課甲斐文助係長の名をとって「甲斐捜査手記」と呼ばれている。『帝銀事件と日本の秘密戦』は、この「甲斐捜査手記」を分析し、「秘密戦」機関の毒物研究と人体実験の内容を示している。「甲斐捜査手記」の記述により、731部隊、九研・登戸研究所、陸軍習志野学校、関東軍化学部などの捜査について述べられるが、その中に「八六部隊・中野実験隊・特設憲兵隊」の項がある。「八六部隊・中野実験隊・特設憲兵隊」は、帝銀事件捜査の中で浮上した秘密戦機関・部隊であるが、「甲斐捜査手記」に「本部は鷺宮のキリスト教会を本部にしていた」「鷺宮のキリスト教会にいた」などの記述があり、驚く。著者の山田朗氏は「鷺宮のキリスト教会を本部にしていたという奇怪な情報までついてきた」と記している。また同じく「甲斐捜査手記」を扱った、常石敬一氏の『謀略のクロスロード』(日本評論社,2002)にも同様の記述がある。秘密戦機関・部隊の本部があった「鷺宮のキリスト教会」とは一体何なのか。

3.陸軍憲兵学校実験隊(中野実験隊)

 陸軍憲兵学校は、帝国陸軍の軍学校の一つであり、憲兵練習所を前身として、1937(昭和12)年に設立された。陸軍憲兵学校は、陸軍中野学校の隣に立地していたが、両者の組織は全く別であった。陸軍中野学校は秘匿された組織で、陸軍憲兵学校の生徒もその存在すら知らなかったという。「甲斐捜査手記」によると、その陸軍憲兵学校の中に実験隊という組織があった。陸軍憲兵学校実験隊は、1942(昭和17)年頃発足したようであり、青酸カリ、砒素などの毒物、細菌、変装など、個人謀略の教育などが行われた。中野実験隊などとも呼ばれている。次に述べるように、陸軍憲兵学校実験隊は東京憲兵隊特設本部(鷺宮特設憲兵隊)となる。

4.東京憲兵隊特設本部(鷺宮特設憲兵隊)

 「甲斐捜査手記」には複数の人物が、東京憲兵隊特設本部(鷺宮特設憲兵隊)について供述している。それによると、陸軍憲兵学校実験隊(中野実験隊)は、1943(昭18)年12月頃憲兵学校から独立し、東京憲兵隊特設本部と称した。鷺宮特設憲兵隊などとも呼ばれる。「甲斐捜査手記」の記述によると、東京憲兵隊特設本部は、1944(昭和19)年7月頃、「鷺宮のキリスト教会」に本部および一分隊(写真関係)を置き、二分隊(秘密文書)は大森、三分隊(化学・毒物)は田園調布に置かれたという供述があるが、はっきりしない。次に述べる満州の新京特設憲兵隊については、『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会本部、1976)などにも記載があるのだが、この鷺宮の東京憲兵隊特設本部については、「甲斐捜査手記」によるもの以外の資料を見出すことができず、謎に包まれている。

5.新京特設憲兵隊(通称「八六部隊」)

 「甲斐捜査手記」から、この陸軍憲兵学校実験隊・東京憲兵隊特設本部は、満州・新京市の特設憲兵隊(通称「八六部隊」)と密接な関係があったと考えられる。ただ詳細は不明である。両者は人的に行き来があり、前者で教育し、後者で実践するということだったのか。「甲斐捜査手記」によると、新京特設憲兵隊は、関東憲兵隊司令部直轄で、他の部隊との人事交流のない独立した部隊で、対象は個人(個人謀略)であった。「個人謀略で青酸加里を使ふ」「毒物に依る人体実験は見ないが絶へずやっていて」などの供述がある。「石井部隊と協力してやる」「細菌を研究して謀略をやる」との供述もある。この新京特設憲兵隊については、『日本憲兵正史』(全国憲友会連合会本部、1976)にもある程度の記述があり、「甲斐捜査手記」と異なる部分もあるが、「法医・細菌」の分隊があったことは記されている。

6.鷺宮のキリスト教会=ルーテル神学校

 このような中国での人体実験、謀略ともつながる東京憲兵隊特設本部が置かれていた「鷺宮のキリスト教会」と何なのか、非常に関心を覚えたところである。調べてみると、この東京憲兵隊特設本部が置かれていたのは、ルーテル神学校(日本ルーテル神学専門学校。当時は日本東部神学校に統合されていた)であったことが分かった。

 『ルーテル学院百年の歴史』(江藤直純・徳善義和著,学校法人ルーテル学院,2009)によると、日本基督教団の成立に伴い、各教派の神学校も合同することになり、1943(昭和18)年に鷺宮にあった日本ルーテル神学専門学校も日本東部神学校に統合された。日本ルーテル神学専門学校の鷺宮の校舎は、日本東部神学校の予科にあてられた。しかしそれから間もなく、1943(昭和18)年12月31日付で、鷺宮の校舎は憲兵隊に徴用されたのだが、そのことは何故か『ルーテル学院百年の歴史』には記載されていない。

 『ルーテル学院百年の歴史』の前に出版された『日本ルーテル神学校五十年のあゆみ』(日本ルーテル神学校,1959)には、当時日本東部神学校副校長であった三浦豕氏(ルーテル神学校第三代校長)が、憲兵隊に徴用される経緯について、次のとおり記している。「戦争の進展に伴い、思いがけない困難が鷺宮の神学校に迫ってきた。それは文部省科学局から理事長と校長と私とに文部省に出頭せよとの事である。行って見ると、文部省の東亜資源調査部では、戦争の進展に伴い、益々その拡張の必要があるが、現在の建物で到底これを果たしかねる。それで神学校の建物を収容する事に閣議を以って決定したから、当方に売却するか貸与するか、いずれかに決定して欲しいと高圧的な要求であった。」「手放しがたい旨を述べ交渉中、特設憲兵隊がこれを知り、分隊長が私を訪れ、文部省の要求は全く無茶である、その方よりも憲兵隊のほうに貸して貰えないだろう。憲兵隊では家賃もお払いするし校舎も大事にし靴を抜いでスリッパをはく事にする、文部省の方は私の方で解決するからとの事であったので、その方に貸与することにした。もしあの時文部省の要求に応じてこれを手放していたら、どんな事になっていたであろうか。」

 この記述からは、三浦豕氏は文部省よりも憲兵隊を選択したということがわかり、また憲兵隊に好意的なニュアンスも感じられる。この文章を書いた時も、三浦豕氏は特設憲兵隊が秘密戦機関であったことを知らなかったのかもしれない。

 他の資料の記述も見てみる。日本福音ルーテル武蔵野教会の教会史である『私たちの教会七十五年の歩み』(75周年記念誌編集委員会編,日本福音ルーテル武蔵野教会,2002)の座談会の中で、当時神学校とともにあった神学校教会の教会員であった福山春代氏が、当時の神学校のことを話している。「軍部に接収され憲兵隊が使用していました」「戦争の間は二階にいた憲兵さんとは何も話はしませんでしたなど」とある。1945(昭和20)年8月の敗戦後も「憲兵隊の本部だったため、全ての書類を焼かなければならないと言ってなかなか引き揚げ」なかったそうだ。

 また、鷺宮に住んでいた詩人の壺井繁治の『激流の魚 壺井繁治自伝』(光和堂,1966)に、「憲兵の初訪問」という項目がある。「町のルーテル神学校が軍に接収され、そこへ特設憲兵隊がやってきたのはこのころであった。それは戦争末期の民衆の動きを看視するのも一つの仕事だったらしいが、ある日わたしの家へ憲兵の初視察はあった」とある。「特設憲兵隊」という名称自体は、外部の一般の人にも知られていたようだ。

 戦後、鷺宮の校舎は、日本基督教団神学校財団の所有となったが、後にルーテル神学校に返還された。また日本ルーテル神学校の神学教育は、1948年に再開した。同神学校は、1969(昭和44)年には三鷹に移転し、現在は日本ルーテル神学校とルーテル学院大学となっている。鷺宮の跡地は、「白鷺ハイム」という集合住宅となり現在に至るが、神学校跡の案内板が立っており、敷地内には当時からのヒマラヤ杉が茂っている。神学校教会は、100m東に移り、日本福音ルーテルむさしの教会として現在も活動している。

 以上のように、ルーテル神学校・日本福音ルーテルむさしの教会関係の発行物にも、鷺宮の神学校が憲兵隊に接収されたことは、少ないながらも記されてはいる。しかし今は、そのことを知っている人は非常に少ないのではないか。そして、それが単なる憲兵隊ではなく、中国での人体実験、謀略戦にもつらなる秘密戦機関であったことは、今の日本ルーテル神学校・ルーテル学院大学・日本福音ルーテルむさしの教会の人々も、ほぼ全く知らないのではないかと思う。