本間清雄

雑司ヶ谷霊園1-8-9

★本間清雄(ほんまきよお)(1843.3.27(天保14.2.27)-1923(大正12).7.31)

江戸時代末期〜大正期の外交官。遠州掛川藩医第10代鶴翁の次男として生まれる。14歳の時に家を出て横浜に赴き、アメリカ人ヘボンについて語学を学ぶ。1864(元治1)年、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)に英語を学び、筆記方として彼が発刊した日本初の民間新聞「海外新聞」を助けた。日本における最初の新聞記者。『海外新聞』廃刊後、サミュエル・ロビンス・ブラウン、ディビッド・タムソン、ジェームス・ハミルトン・バラに学び、1867(慶応3)年パリ万博に参列する徳川昭武の一行に従ってヨーロッパに渡る。維新後は外務省に勤務し、オーストリア駐在代理公使、オーストリア公使館書記官、無任所弁理公使などを歴任。1893(明治26)年に退官、1901(明治34)年赤十字社の常議員となった。森有礼の妻寛子の勧めで、植村正久から受洗、ほぼ無給で東京神学校の庶務を担う。