土肥修平

雑司ヶ谷霊園1-5-15

バプテスト、ホーリネス、メソジスト、同胞教会、聖公会...と次々と教派を転々としているのがすごい。ウィキペディアには、「中田重治から「教会破壊者」との烙印を押された。土肥は中田から、きよめ派の会員への交際禁止を厳命を受けた」とあるが...。

★土肥修平(どいしゅうへい)(1858.10.25(安政5.9.19)-1945(昭和20).7.3)

備前岡山藩士土肥典膳の長男として生まれる、幼名義太郎。1873年(明治6)年、神戸に出て、アメリカン・ボードの宣教師D・C・グリーン・デビスの英学校に入学。英語の聖書講義を受講。1874(明治7)年、大阪のゴールドン英語会に通学し、聖書を学ぶ。1893(明治25)年、にてホワイトの説教を聴く。1894(明治26)年、ホワイトより受洗、木挽町バプテスト教会員に。基督教書類会社に入社するが、献身の決心を固め、退職。大阪基督教女子青年会総幹事。1894(明治27)年、木田文治、河辺定吉、松野菊太郎、金谷碩太郎らと「小さき群」を結成。1895(明治28)年、小さく群解散、大阪安治川の南メソジスト・ミッションに協力。1896(明治29)年、松江に赴き、バックスントンの下で修養。その後上京、同胞教会に協力。1898(明治31)年、同胞教会を辞し、警監ミッションに。1901(明治34)年、警監ミッションを辞す。バックストンの紹介で、聖公会新橋教館主任に。1917(大正6)年、新橋教館辞任。1918(大正7)年、CMSミッションに所属。1919(大正8)年、CMSミッションを辞任、独立自給伝道者に。