安部磯雄

雑司ヶ谷霊園1-1-10

キリスト教社会主義者とされるが、アメリカ・ドイツ留学から帰国後、ユニテリアン協会に入会しているので、ここでキリスト信仰は失っているとみるべきだろうか...。「安部磯雄之墓」の隣に「岡本家之墓」。安部磯雄は、兵役免除の制度に合う養子先を探し、安部になったのだった。

★安部磯雄(あべいそお)(1865.3.1(元治2.2.4)-1949(昭和24).2.10)

キリスト教社会主義者。福岡の黒田藩士岡本権之丞の子として生まれる。海軍軍人を目指し、英語を習得するため、同志社に入学し、新島襄から大きな影響を受ける。1882年(明治15)年2月5日、新島襄から受洗。在学中、徴兵を逃れるため、名義上安部家の養子となる。

1887(明治20)-1891(明治24)年、岡山教会で伝道の後、アメリカに留学し、ハートフォード神学校で学ぶ。エドワード・ベラミー(Edward Bellamy)の小説『かえりみれば』(Looking backward)を読んで、社会主義に共鳴。その後、ドイツ・ベルリン大学に留学。帰国後、ユニテリアン協会に加入。1897(明治30)年1月から同志社の教師となるが、同志社綱領問題で辞職。1899(明治32)年から東京専門学校(後の早稲田大学)で教鞭をとった。村井知至が会長の社会主義研究会のメンバーとなり、同会が社会主義協会に発展した際には会長に就く。『六合雑誌』に多くの社会主義論を発表した。1898(明治31)年には幸徳秋水らと社会主義研究会、1901(明治34)年には社会民主党を結成した。日露戦争に際しては非戦論を唱えた。大正デモクラシー期の 1924(大正13)年には日本フェビアン協会会長となり、1929(大正15)年、社会民衆党を結成し、委員長に就任する。1928(昭和3)年)1回普通選挙で当選(4回当選)。1932(昭和7)年、社会大衆党を結成し、委員長となる。戦後は日本社会党顧問を務めた。

また、1901(明治34)年11月、早稲田大学野球部の創立の際、部長に就任し、野球の発展に貢献し、「日本野球の父」としても知られている。