柘植不知人

雑司ヶ谷霊園1-1-10

★柘植不知人(つげふじと)(1873(明治6).12.12-1927(昭和2).3.20) 

 広島県の医者の長男として生まれる。1913(大正2)年9月21日、神戸新開地で日本伝道隊のウィルクスの天幕伝道の説教によって回心。11月9日受洗。バックストンのすすめで日本伝道隊の聖書学校に入学。1916(大正5)年10月10日、梅田駅裏で「聖霊のバプテスマ」を受ける。1919(大正8)年には、ホーリネスの小原十三司らと飯田に赴き、飯田の聖会でリバイバルが起こる。1921(大正10)年、台湾伝道。神癒やペンテコステ体験などを重んじる柘植は、日本伝道隊の幹部らと相容れないことが多くなり、1922(大正11)年、柘植は藤村壮七とともに、日本伝道隊と袂を分かち、1923(大正12)年「基督伝道隊」を設立することになる。「救の実験を有ず、聖潔の体験を得ず、唯教理的教えを受け、キリスト教的形式儀式に捕えられ、知識的にキリスト教を知るのみにて霊的カナンの恵みを知るもの少なきは日本キリスト教の進歩せざる原因なることを認めいよいよ純福音宣伝の急務を痛感し、基督伝道隊の設立を急いだ」と言う。

 日本全国の伝道の本部として、東京に地を求めたところ、神癒を経験した落合の渡部正雄が自宅を献げ、土地が得られた。この下落合274番地には、基督伝道隊の本部とともに、神学校「活水学院」が設立された。建物としては、第一会堂(落合伝道館)、男子ホーム(ノア館)、女子ホーム(サムエル館)、活水学院講堂(シオン館)、牧師館(ヘルモン館)、神癒館(ヘブシバ館)と、かなりの数の建築がなされている。落合伝道館の献堂式は、1922(大正11)年12月31日。

 柘植不知人、基督伝道隊の信仰の特徴の一つに、神癒の強調がある。落合伝道館での落合聖会には、全国各地から人が集まり、神癒が多くおこされたという。当時の基督伝道隊の機関紙『活水』は、誌面のかなりの部分を柘植の説教等と神癒の証詞が占めている。柘植の自叙伝である『神の僕の生涯 ペンテコステの前後』には、医師佐伯理一郎が「医家の見たる神癒」という一章を記している。佐伯は、同志社とも関わりのあるクリスチャンであり、同志社病院長、京都看護婦学校の管理者であった人だが、柘植の下で、自宅に京都基督伝道館を設立した。現在のキリスト伝道隊清和キリスト教会である。

 さて、基督伝道隊設立から数年の1927(昭和2)年、静養先の別府で柘植は逝去。活水学院は1931(昭和6)年、解散した。宗教団体法施行の下、落合基督伝道館は日本基督教団に加入し、日本基督教団落合教会となる。『日本基督教団年鑑 昭和18年版』では、教会員180(現住139)となっている。そして落合基督伝道館の建物は、1945(昭和20)年の空襲で焼失したという。

 現在、柘植不知人・基督伝道隊の流れを汲む団体は、「キリスト伝道隊」「基督伝道隊」などがあり、また日本基督教団の中にも存在している(「活水の群れ」。渋谷教会、飯田知久町教会(旧飯田基督伝道館)、尼崎竹谷教会(旧尼崎基督伝道館)、山手教会など)。

基督伝道隊・渡部正雄

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