草津温泉とハンセン病とキリスト教

草津温泉とハンセン病とキリスト教1-温泉街時代-

2019年8月に訪れた行った草津温泉。

草津温泉の開湯伝説はいくつかあり定かではないが、開湯以降、薬師信仰と結びつき、湯治の人々が多く訪れ、その中にはハンセン病の人いたようである。

明治時代に、草津温泉を紹介する『草津温泉誌』にハンセン病に効能があることが記されたことやベルツ博士がハンセン病に効果があることを指摘したことなどから、草津に来るハンセン病者が一層増加することになった。

ハンセン病者は、草津温泉街の旅館などに長期間滞在した。旅館経営者にとっては、長期間滞在する客は経営上利益をもたらす客であった。もっとも厚遇されたわけではなく、一般客とは分離され、差別の偏見の中にあった。そうではあっても、この時期は一般住民とハンセン病者は、草津温泉街で共住していた。

ハンセン病者は、数ある共同浴場の中でも、源頼朝が見つけたという伝説があり、薬師信仰と結びついた「御座の湯」を好んだ。現在の湯畑のそばである。

この「御座の湯」は、「白旗の湯」と名前を改め、現存しており、現在最も有名な共同浴場となっている(別の場所に「御座之湯」が観光客向けの湯として2013年に再建されている)。

「白旗の湯」には、今回は入浴しなかったが、以前、熱くて必死の思いで入浴したことがある。案内文にはハンセン病のことは記されていない。このことに疑問をおぼえる。

草津温泉とハンセン病とキリスト教2-湯之沢集落-

明治時代の中期になると、草津温泉を近代的な保養地として発展させようという動きが強まった。ハンセン病者が一般住民と共住していることは草津温泉の発展に支障になるという考えから、草津温泉街からハンセン病者を排除する計画が立てられた。草津の東のはずれにある「湯之沢」という地区に移転・移住させる計画である。「湯之沢」は条件の悪い土地であり、強い反対の声が上がった。これに対し、町は一般の町民と同じ権利を与えることを約束し、ハンセン病者が好んだ「御座の湯」を湯之沢に「移転」する(湯之沢の白須の湯の名称を「御座の湯」に改称)ことを約束した。こうしてハンセン病居住区としての湯之沢集落が誕生した。世界的にも珍しいハンセン病者の自由療養区である。一時は800名の人口になったという(ただしハンセン病者だけでない)。

私も今回入浴したが、観光客で多く訪れる「大滝乃湯」あたりが旧湯之沢集落である。現在、「湯之沢」の地名はほぼ残っていない。わずかに「湯ノ沢橋」に名前をとどめるのみである。

草津温泉とハンセン病とキリスト教3-宿澤薫-

湯之沢集落とキリスト教のかかわりの最初は、パリ外国宣教会。神山復生病院のベルトランが1897年に草津を視察、病院を作ろうとしたが旅館組合の反対などで断念。この反対は、病院や宿舎などが建設されると、旅館のハンセン病者客が奪われるからである。

その後、熊本に回春病院を設置したハンナ・リデルが1900年に湯之沢を訪問。ハンナ・リデルは、1913年に回春病院付属の聖公会熊本降臨教会の米原馨児司祭を派遣。米沢司祭の伝道集会をきっかけに、キリスト教勉強会「光塩会」が設立。この光塩会が、草津聖バルナバ教会の前身となった。

光塩会の中心となったのが、宿澤薫である。宿澤は、ホノルルでビジネスに携わっていたホノルル聖公会の信徒であった人だが、ハンセン病の療養のために湯之沢に来て、光塩会に入会した。宿澤は、ヨルダンホームの建設など活動し、コンウォール・リーの来草への道を備えた。リーのバルナバ・ミッションにも大いに協力したが、1925年に35歳の若さで天に召された。

宿澤薫の墓が、草津聖公会霊園にある。墓石には、舊約聖書米迦書(旧約聖書ミカ書)第七章第八・九節と記されている。
ミカ書7章8-9節は、新共同訳では、「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光。わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る」。

草津温泉とハンセン病とキリスト教4-コンウォール・リーとバルナバ・ミッション-

バルナバ・ミッションとコンウォール・リーについては、本も何冊か出されており、よく知られている。中村茂著『草津「喜びの谷」の物語: コンウォール・リーとハンセン病』(教文館)、中村茂著『リーかあさまのはなし』(ポプラ社)などがある。

宿澤薫は、聖公会牛込バルナバ教会に赴任していたコンウォール・リーを知り、草津に来るように懇願した。

それを受けて、コンウォール・リーは、1915年草津を視察、翌年湯之沢に移住し、バルナバ・ミッションを開始した。

バルナバ・ミッションとして、教会、幼稚園、ホーム、病院、小学校などが建設され、多面的な活動を展開した。多くのハンセン病者が集まってくるようになり、1930年には湯之沢の人口は800名を超え、草津町の人口の約2割に達し、バルナバ・ミッションの拠点となった聖バルナバ教会も、信徒数500名になった。聖バルナバ教会は現存しており、このたび礼拝に出席させていただいた。現在の礼拝出席者は、7名程度となっている。

当初バルナバ・ミッションは、リーの私財が費用に充てられたが、その後、英米の資金援助にも拠った。時代は、国立療養所への収容が進められる状況となり、また日中戦争による日本と英米の関係の悪化により、英米などからの資金援助が途絶え、バルナバ・ミッションは1941年解散した。このときほとんどの建物は壊されたが、聖マーガレット館の建物が現存し、教会の研修施設として使われている。

バルナバ・ミッションの解散のとき、リーは既に体調悪化で草津を離れていたが、同じ1941年に召天。遺骨は草津聖バルナバ教会納骨堂におさめられた。

コンウォール・リーとバルナバ・ミッションの歴史は驚くものである。

草津温泉とハンセン病とキリスト教5-服部けさ-

服部けさは、1884年、福島県岩瀬郡須賀川村(現在の須賀川市)に生まれる。1905年東京女医学校入学、1910年に富永徳磨簿牧師から受洗。医師であるが、看護師として勤めた東京三井慈善病院で、多くのハンセン病患者と関わり、また三上千代と出会う。

1917年、コンウォール・リーと三上千代に請われ、草津へ赴く。服部と三上は、バルナバ・ミッションの聖バルナバ医院で中心的に働く。しかし、その後、日本人自身の手による患者救済という考えなどからコンウォール・リーと袂を分かつことになる。服部と三上は、1924年、「鈴蘭病院」を湯之沢内の上町との境界近くに開設。ところが、開院後わずか23日後に、もともと体が弱かった服部は病により、41歳で天に召される。葬儀は草津聖バルナバ教会で執行、教会墓地に葬られた。

草津温泉とハンセン病とキリスト教6-三上千代-

三上千代は、1891年山形県山形市に生まれる。1908年、ホーリネスの東洋宣教会の聖書学院に入学、伝道師となる。南伊豆伝道の中でハンセン病者と出会い、ハンセン病者への奉仕を決意し、1912年に三井慈善病院の看護婦養成所に入所する。ここで服部けさと出会う。1916年、「全生病院」(現多磨全生園)に入り、光田健輔の下でハンセン病医療を学ぶ。

1917年、宿澤薫の依頼により、バルナバ・ミッションのバルナバ医院へ。しかし、後に、三上千代と服部けさは、コンウォール・リーと離反することになる。この離反は、三上千代の場合、コンウォール・リーの聖公会の信仰と三上千代のホーリネスの信仰の信仰的相違が大きな理由であった。

服部けさと三上千代は、1924年、「鈴蘭病院」を湯之沢内の上町との境界近くに開設。ところが、開院後わずか23日後に、服部が召天。

三上千代は悲嘆し、草津を離れるが、1925年再び草津に戻り、草津のはずれの滝尻原に鈴蘭村を建設する。これは「健康に応じて農業その他生産的な仕事に従事」しつつ生活する理想的自由療養村を目指すものであった。比較的な裕福な患者を対象にしたものであり、また自由を求める湯之沢の人にはあまり受け入れられなかった。光田健輔、賀川豊彦、日本MTLなどが支援したが、1931年、鈴蘭村は経営難により閉鎖。内務省で「鈴蘭村」救済が話し合われ、官立療養所の設置が意見され、栗生楽泉園の建設と結びついていく…。

その後三上千代は、1931年に第二鈴蘭村を宮城県名取郡秋保村に開設するが、1933年閉鎖。多磨全生園に復職。1938年沖縄愛楽園看護婦長、1947年全生病院、1954年退職。1978年、召天。墓は、草津聖バルナバ教会墓地の服部けさの墓の隣にある。

なお、日本ホーリネス教団は、三上千代について、三上千代の「日本は天皇を頂く世界に比類なき国であるが、その中にあってハンセン病は、盛装した婦人の顔面の夥しい汚物、文明国の面汚し」という発言などから、「高い志と差別的な感覚という、一見矛盾するような要素が同居している」と指摘している(日本ホーリネス教団 福音による和解委員会編集『らい病と私たち』)。単に聖人視するのではなく、このように功罪や時代の限界などを含めて考えるべきだろう。
三上千代は、晩年、ハンセン病の隔離政策などについてどのように思っていたのだろう。1978年召天なので、問うことはなかっただろうか。

草津温泉とハンセン病とキリスト教7-鈴蘭医院・草津郵便局湯之沢分室跡-

三上千代と服部けさは、信仰上の理由、日本人自身の手による患者救済という考え方、医療の在り方の考え方の相違等から、バルナバ・ミッションのコンウォール・リーと袂を分かち、1924年に鈴蘭医院を開設した。場所は、上町と湯之沢との境界付近である。現在の湯畑から大滝乃湯に向かう滝下通りである。

鈴蘭医院は、開院後わずか23日後に、服部けさが逝去し、実際に活動することはほとんどなかった。

鈴蘭医院の建物は、1929年、草津郵便局湯之沢分室となった。湯之沢分室への局員の派遣が滞っていたところ、長野原郵便局より赴任した黒岩利一が献身的に活躍した。

湯之沢分室は、1941年に栗生楽泉園内に移転した(草津栗生郵便局)が、黒岩利一、黒岩順市、黒岩伸一の親子3代にわたる局長が奮闘した。重監房資料館の北原誠学芸員は、「開局の精神は今日も脈々と受け継がれて、全ての入園者から絶大なる信頼を得ている」と言う。郵便局員の奮闘と現在もその精神が受け継がれていることに感銘を受ける。

草津温泉とハンセン病とキリスト教8-安部千太郎と草津明星団-

安部千太郎。1882年生まれのホーリネスの伝道者。中学時代にハンセン病を発症。外国語学校在学中の1901年受洗。1903年、ハンセン病の病状悪化により退学し、放浪する。1910年、東洋宣教会の東京聖書学院の聴講生となる。1912~1915年、伊豆大島でハンセン病患者に伝道。またその間も、ハンセン病患者の病人宿の多い田端、日暮里で伝道する。1915年には、ハンセン病患者への伝道を目的に、超教派的に「明星団」を結成。三上千代や服部けさも、明星団で活動している。

1915年、安部千太郎は、宿沢薫や光塩会の招きで湯之沢を訪問。1921年、バルナバ・ミッションに参加。しかし、聖公会とホーリネスの教派的な相違から、1922年、安部千太郎は日本人キリスト者による「草津明星団」(草津ホーリネス教会)を結成。中田重治が草津を訪れ、安部千太郎を牧師に任命している。草津明星団の運営は厳しいものであったが、安部千太郎は、歩行も困難な病状の中、献身的に活動した。1932年、安部千太郎は逝去し、草津明星団は衰退する。1933年にはホーリネス教会の分裂により、草津明星団も分裂。1941年湯之沢集落の解散により、草津明星団も活動を終える。草津明星団の人々は栗生楽泉園に移り、1949年に日本聖公会聖慰主教会に転会した。聖慰主教会のブログは、「草津明星團は、1949年に日本聖公会北関東教区聖慰主教会と合同となりました」と表現している。聖公会の教会が、草津明星團の思いを引き継いでいることに温かい思いがする。

草津明星団の墓碑は、草津聖公会墓地の中にある。墓碑には「我は輝く曙の明星な里」(ヨハネ黙示録22章16節)とある。明星団の名称は、このヨハネ黙示録22章16節に由来している。また墓碑の別の面には、「安部先生外七十有余永眠者の為」とある。

日本ホーリネス教団においては、草津明星団のことは、近年までほとんど忘れ去られてしまっていたようだ。『りばいばる』2008年11月号に、「戦前のホーリネス教会の機関紙に「草津明星團」への支援献金欄がある。「つい数年前まで、これが何であるのか、漢字の読み方すらも分からなかった。2004年に聖公会の司祭から「私たちはホーリネスのお墓を預かっていますよ」と言われて、和解委員会のメンバーが初めて草津を訪問した時に、三本の墓標を見て鳥肌が立つような感動を覚えた。」とある。

2008年には墓碑は老朽化し倒れてしまっていたが、2009年日本ホーリネス教団により新しくされた。記念式は日本ホーリネス教団と日本聖公会北関東教区により行われた。

草津温泉とハンセン病とキリスト教9-弘法大師講-

1920年、弘法大師信者がキリスト教に改宗する際に、弘法大師像を捨てようとしたところ、他の弘法大師信者らが、湯之沢に堂を建て、大師像を安置した。

その後、湯畑を見下ろす高台にある光泉寺の住職が、湯之沢集落の弘法大師信者のハンセン病患者の願いから、四国八十八カ所を巡り、各札所の土を持ち帰り、八十八体の石仏の下に埋めた。

なお、光泉寺には、草津のハンセン病患者の"講"の「栗生大師講慰霊碑」がある。現在、この栗生大師講のメンバーはわずか1名になったとのことである。

草津温泉とハンセン病とキリスト教10-栗生楽泉園自由地区-

1931年に隔離政策の「らい予防法」が成立し、「無らい県運動」の高まりなどから、栗生楽泉園の建設がすすめられた。湯之沢集落のハンセン病患者を移転させるため、政府は草津町と協議し、療養所まで温泉を引湯することにした。反対を抑えスムーズに移転を促すためである。

湯之沢の住民と県との交渉が行われ、徐々に条件闘争に向かう人も増え、1941年に移転同意となった。これにより1942年、湯之沢集落の住民の移転は完了した。

湯之沢集落のハンセン病患者が移転したのは、栗生楽泉園の自由地区である。湯之沢時代からの流れで自由地区は比較的自由があったという。自由地区(下地区)は、一般療養地区とは生活様式も異なり、他のハンセン病療養所では見られない住宅の風景である。有資産患者向けの建て売り住宅や自己資金での住宅建設がなされた。住んでいる方が亡くなられると住宅は壊されるので、今は住宅はかなり減少してきているが、現在も温泉の浴場がある。また、1932年建築の旧青年会館などが保存されている。

草津温泉とハンセン病とキリスト教11-栗生楽泉園のキリスト教・他宗教-

湯之沢集落の解散により、ハンセン病患者は栗生楽泉園に移転することになった。聖バルナバ教会教会は、病者以外の信徒の教会として存続することになり、現在に至る。

栗生楽泉園では、1923年頃から湯之沢集落からの入所者があり、同年末から聖公会信徒による家庭礼拝が始められた。1935年には50名以上となり、家庭での礼拝は困難となり、公会堂を借りての礼拝となる。宣教師や米国聖公会少女会などからの献金があり、礼拝堂を建設。1939年、聖慰主教会が設立された。

聖慰主教会の現在の教会員数は19名。礼拝出席は数名。冬期は信徒宅での礼拝(聖餐式)となるが、それ以外は毎週礼拝堂で行われている。

湯之沢集落時代にあったホーリネス教会は、栗生楽泉園に移った信徒の聖慰主教会への転会により、1949年に消滅した。

 

栗生楽泉園内のキリスト教会では、他に草津カトリック教会が存在している。他の療養所から転入してきたカトリックの信徒を中心に、1956年に設立された。

会堂は、1962年の建築であるが、「健常者と病める信徒たちを隔てる別々の入口、座席、告解室であり、しかも香部屋には手を消毒する容器が据えられ、薬品まで備えてあ」り、「ハンセン病に対する正しい理解が著しく損なわれ、偏見、差別の助長に拍車をかけたことを否むことができなかった」(『全国ハンセン病療養所内キリスト教会沿革史』)という。

また、他の療養所教会と同様、教会員は減少、高齢化し、草津教会は「終末という大きな波に見舞われている。」「草津教会がその使命を果たし終えたとしても、「らい予防法」の過ちを立証する聖堂として、意義と信徒の信仰を証し続けることであろう」(『全国ハンセン病療養所内キリスト教会沿革史』)と記されている。

月に1回ミサが行われているが、現在の教会員数は1名となっている。

 

栗生楽泉園内のキリスト教以外の宗教施設・組織には、日蓮宗妙法会、栗生大師講(真言宗豊山派)、崇信教会(浄土真宗大谷派)、創価学会、天理教、栗生神社がある。

草津温泉とハンセン病とキリスト教12-重監房-

「重監房」とは、栗生楽泉園の敷地内のハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」と称した。「病室」と称するが、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房」として使用された。1938年に建てられ、1947年まで9年間にわたり存在した。この9年間に延べ93名が収監され、23名が亡くなった。人権は完全に無視されていた。このようなことができるのだと、人間の怖さを思う。

 

草津温泉とハンセン病というと、この「重監房」の印象が強かった。しかし、これまで見たように、草津温泉とハンセン病は、自由地区、湯之沢時代、温泉街の時代など、さまざまなありようであった。現在は、観光地としての温泉街となっている。しかし観光案内などにはハンセン病についてほとんど記されていない。観光の中で、草津温泉とハンセン病のかかわりについて、観光客に知ってもらうことを行えばいいのにと思うが、草津町は必ずしも積極的ではないようだ。